安全保障第115号(新年号)
中国駐米大使胡適の「日本切腹、中国介錯論」
――コミンテルンの上を行くペキンテルン――
元防衛大学校教授 平間洋一
太平洋戦争への道程を国際的に見れば、日中や日英の対立をはじめ、ルーズベルトの謀略(裏口参戦論)やスターリン(コミンテルン)の謀略など多くの要因があり多々論じられてきたが、本日はルーズベルトと中国、コミンテルンと中国、特に「孫子の兵法」的に他国を利用する中国独特の戦略的謀略という視点から申し上げたいと存じます。
なお、講演では時間の関係で省略した部分や根拠となる文献を紹介するとともに、補足的な解説も加えていることをあらかじめお断りしておきます。
中華人民共和国はアメリカが造った
ジョセフ・マッカーシー上院議員はヤルタ会談でヨーロッパの平和を、テヘラン会談でアジアの平和を失ったとルーズベルトを非難し、中国共産党を強化し国民党を敗北させた「元凶」として、一九四六年六月に長春への国府軍の進撃を停止させ、八月には国府軍への武器売却や武器輸送禁止を命じたジョージ・マーシャルとディーン・G・アチソンの二人の国務長官を非難しているが、特にマーシャル長官に対しては一七項目の罪状を列挙して激しく非難している 。
また、アン・コールターも『リベラルたちの背信』で、ルーズベルトはスターリンのスパイだったアルジャー・ヒスを傍らにはべらせて、ヤルタ会談で東ヨーロッパを売り渡しただけでなく、国連総会での三票と国連ナンバー・ツウの高官を指名する特権と拒否権をソ連に与えた。
ハーリー・S・トルーマン大統領は非米活動委員会が開かれると、コロンビアに亡命したロークリン・カーリー、クレムリンのスパイのヒスを擁護し、ハーリー・D・ホワイトをIMFの理事に任命し、スパイだと指摘されても解任しようとしなかったと非難している 。
「ハーリー・D・ホワイト(米財務次官)」
1945年2月のヤルタ会談が行われていた時は、ソ連が強引にポーランドに親ソ政権を樹立し、ブルガリアやルーマニアを支配下に置こうとしていた。
これに対してルーズベルトは世界赤化というソ連の野心を見抜けず、米英ソの協調が可能との思いこみからソ連に譲歩することにより、1920年代のような安定した戦後体制が確立できると考えていた。
そして、ヨーロッパではドイツの分割のみならず、東ヨーロッパ、バルト三国をソ連の勢力圏と認め、アジアでも南樺太と千島列島を対日参戦の代償として認め、旅順や大連港の優先的使用、南満州鉄道の中ソ共同管理などを認めた。
それが中国共産党に中国全土と満州を制圧することを助けた。
また、蒋介石への援助を凍結し、共産軍に不利な戦局となると蒋介石に進撃中止の圧力をかけ続け、中国の共産化に手を貸すという大失策を犯したため、二年後に朝鮮の戦場で6万3000人余りの若者が、次いで10数年後には、さらに多くの青年の血がベトナムの戦場で流されたと、在華米軍司令官兼蒋介石の参謀長であったアルバート・C・ウェディマイヤー少将も、マーシャルとアチソン国務長官を非難している 。
またユン・チアン、ジョン・ハリディは『マオー誰も知らなかった毛沢東』で「ワシントンに救われる」、謝幼田は『抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか』で「巧みに利用されたアメリカ人」、蒋介石は『蒋介石回想録』で「こじれた中国軍の指揮権問題」の一章を設けて、マーシャル国務長官や中国駐在の外交官や在華米軍司令官兼蒋介石の参謀長であったジョセフ・スティルウエルなどが、いかに共産党寄りの政策をしたか、また中国共産党やクレムリンが如何にアメリカを利用したかの策謀の詳細を明らかにし、マッカーシやウェディマイヤーなどが指摘した事実が正しかったことを裏付けている 。
「ウェディマイヤー少将」
さらに謝幼田は国府軍がハルビンから100キロの距離にあった1946年6月に、国民党政府への援助を停止せずに林彪の部隊が長春から潰走し、ハルピンに向かっているときに停戦を命じていなかったならば、共産軍が満州に進入し日本軍の武器を得て強化されることはなく、歴史の展開は異なった様相を呈したであろうと述べているが、蒋介石が有利な時にマーシャルは度々討伐作戦を中止させたのである。
4ヵ月の停戦期間を利用して林彪以下6000人が満州に侵入し、旧満州国軍の兵士や徴兵により30万の兵士を獲得し、敗軍を立て直すことができたのであった。
しかも、ソ連軍が日本軍から接収した航空機や戦車などの武器を与え、旧日本軍の指導を受け航空部隊を創設し 、みすぼらしい共産軍が近代的軍隊へと改編されたのであった 。
蒋介石はこの停戦が「命取りとなって1948年冬、我々は東北で最終的な敗北を喫した」と述べている。
もし前進を続けていれば中国東北部の戦略的中心を占領し、北満に散在していた共産党の敗残兵を粛清し、満州は容易に平定されたであろうと書き残している 。
「蒋介石総統」
しかし、最も辛辣詳細に批判しているのは、コミンテルン要員であった夫がスターリンに殺され、スティルウェルやスメドレーなどとも日本軍の漢口攻撃時には交流があり、『日本の粘土の足 』で「朝鮮・台湾・満州における日本人官吏や警察の腐敗堕落、その容赦ない現地人抑圧、無防備の人々の前に野放しにされた小商人たちや高利貸の群れの行いなどは、盛んに言われている武士道精神や、日本人の高い美徳や、アジアの民を「解放し」導く使命などと重ね合わせるとき、共和政末期にローマが属州で行った悪政を思い起こさせる 」と書いていたイギリス人のフリーダ・アトリーであろう。
アトリーは著書『アトリーのチャイナ・ストーリー』の半分を使いマーシャルやトルーマンを非難している。
左傾化したルーズベルト政権とピンコ (注1参照)
なぜ、アメリカはこのように中国に騙されたのであろうか。
それはワシントンから中国の現地までが、フランクフルト学派 のピンコや共産主義者に抑えられていたからであった。
ルーズベルトはニューディール左派の進言を入れ、全国産業復興法、農業調整法、国家復興庁法などで私企業に介入し、連邦裁判所から憲法違反の判決が出されるほど、社会主義的な政策を大胆に推進し、自由市場経済から社会主義統制経済へと転換した。
このためアメリカでは共産主義への警戒心も薄れ、社会主義化した 。
[注1: 米国の辞書によれば「左翼的意見を持った人」、「穏健な共産主義者」などとあり、この言葉は一九二六年に雑誌の『タイム』が最初に使い、その後も左翼陣営を批判するときに"Pinko Press"や"Pinko Intellectuals"などと軽蔑を含んだ意味で使われている。
1918年のハンガリー革命に失敗したジェルジ・ルカーチはソ連に亡命し、革命を成功させるには伝統や文化を根底から破壊しなければならないと主張、この思想はフランクフルト大学社会研究所のユダヤ系ドイツ人マックス・ホルクハイマ―教授に引き継がれ、新しいユートピア社会を作るには宗教、資本主義、家族、道徳、伝統、愛国心などを徹底的に排除しなければならないとの主張になった。
この信望者がフランクフルト学派と呼ばれるマルクス主義者で、ヒトラーの弾圧が始まるとアメリカに逃れコロンビア大学の援助を受け、表立ってマルクス主義の用語も使わないことから共産主義を嫌うアメリカでも受け入れられ流布した。]
一方、ソ連は1935年の第7回コミンテルン世界大会で、これまでの一党独裁路線を改め、リベラルなあらゆる勢力と協力し反ファシズム(具体的には日独)と戦う人民戦線戦術を採択したこともあり、知識人などのピンコが共産党に入党し、1930年には7500人に過ぎなかった共産党員が38年には7万人に増加した 。
この結果、ニューディール政策を推進したルーズベルト政権には太平洋問題協議会理事で副大統領のヘンリー・A・ウォーレス、ハロルド・イッキーズ内務長官などの強硬なリベラル左派がおり、また補佐官などには大統領特別補佐官のハリー・ホプキンズ、経済担当補佐官のキューリー、国務省のアルジャー・ヒス、財務省のホワイトなど、200名近い共産主義者やピンコなどが採用され、ルーズベルト政権の政策決定に大きな影響を与えた。
「ルーズベルト大統領」
「ベノナ文書 」によると大統領補佐官のジョン・ホプキンスはNKVD(KGB国家保安委員会の前身)の全米責任者イサク・アフメーロフに貴重な情報を提供し、モスクワでは「役立つ間抜け」と云われていた 。
また、ヤルタ協定の原案を作成したヒスは暗号名「アリス」と呼ばれ、ルーズベルトやトルーマン政権内の情報を流し続け、さらに実質的な初代国連事務総長として国連の創設にかかわり、国連事務次長のポストをソ連の指定席とし多数の要職をソ連に与え、国連をソ連の宣伝謀略機関としてしまった 。
ヒスは1949年にスパイ行為が発覚し逮捕されたが、民主党やリベラルなジャーナリズムが庇い、スパイ罪の時効が10年であったことから2件の偽証罪で懲役5年にとどまった 。
また、対中国政策に最も大きな影響を与えたのが、太平洋問題調査会出身の極東問題の大統領補佐官カーリーで、カーリーは日米開戦半年前に宋子文などとフライイング・タイガー(義勇軍飛行隊)に戦闘機三五〇機、爆撃機一五〇機を供給し、義勇兵により中国空軍として海南島や台湾、九州や大阪、さらには東京などを爆撃する陸海軍参謀会議作成の「対日爆撃計画(JBB355号)」を、ヘンリー・モルゲンソー財務長官、フランク・ノックス海軍長官などの協力を得て七月二三日にルーズベルトに承認させ、この日本爆撃作戦は九月末か10月初旬には開始される予定であった(しかし、欧州戦線が緊迫しイギリスに航空機が引き渡されたため実現しなかった) 。
またキューリーは太平洋問題調査会の『Pacific Affairs』編集長オーウェン・ラティモア(妻は共産党員)を蒋介石の顧問に推薦し、ホワイトハウス内の自分の執務室で仕事をすることを認めていた 。
「フライイング・タイガー(義勇軍飛行隊)」
この太平洋問題調査会は環太平洋諸国の相互理解、文化交流などを目的とし、政治・経済・社会問題などの共同研究を行う機関として、ロックフェラー財団の支援を受け、1925年にハワイのYMCA(キリスト教青年会)によって創設された。
しかし、1933年にニューヨークに事務局を移し、エドワード・カーターが事務総長に就任すると反日色を強めていった。
特にアメリカ支部長のフレデリック・フィールドは共産党青年養成機関の会長であり、フィリップ・ジェフェ理事は共産党が援助している『アメラシア』の編集長であった。
調査会の事務所と『アメラシア』の編集室は同一ビルにあり、調査会のメンバーがしばしば『アメラシア』に寄稿し、依頼を受けて講演活動を行っており、調査会が「共産党ト密接ナ関係ヲ有シ」ていると若杉要ニューヨーク総領事は報告している 。
また、アトリーも『Pacific Affairs』や『アメラシア』は、中国に好意的でない論文は殆ど掲載せず、国務省、戦略諜報局(OSS)、外交政策協会の職員や大学教授、ジャーナリストなどが相互に密接に結びつき、このネットワークが新聞やラジオ、講演会の開催などに絶大な影響力を持っていたと述べている 。
この調査会がいかに親共産党であったかは、機関誌『Pacific Affairs』に、「現在、二つの中国がある。一つはわれわれが言うところの国民党中国であり、もう一つは共産党中国である。しかしこれらは看板に過ぎない。
もっとはっきり言えば、一つは封建中国、もう一つは民主中国と呼ぶべきものである」との記事を掲載していたことからも明かであろう 。
蒋介石政権の反日組織と中国共産党
中国は今でも、中国に協力的な人物を「中国の良き友」などと呼び利用しているが、当時も「国際友人」とか「我らの良き友」などと呼ばれた大学教授や宣教師、新聞記者などが利用されていた。
これら国際友人などは単に便宜が与えられるだけでなく、人によっては国民党中央宣伝部国際宣伝処顧問とか翻訳編集などの業務、さらには「特約(内容不明)」契約などにより報酬が与えられていた 。
エドガード・スノーは『中国の赤い星』『極東戦線』などの著書を通じて日本の侵略行為を世界に訴えたが、ユン・チアン、ジョン・ハリディの『マオ 誰も知らなかった毛沢東』によると、1936年春に毛沢東が自分を宣伝してくれる西欧のジャーナリストを探すように指示し、スノーに白羽の矢が立った。
スノーの訪問に際し毛沢東は「安全、保密、熱嗣(盛大)、隆重(丁重)」を旨とせよとの指示を与え、政治局はスノーから提出させた質問に対する回答を念入りに準備し、「毛沢東はさらに用心のためスノーが書いた原稿をチェックし、訂正や書き直しの筆を入れ」たという 。
なお、スノーは北京大学構内の墓に「良き国際友人」として眠っている。
また「日本の中国侵略に加担しないアメリカ委員会(以後、アメリカ委員会と略記)」は、元北京大学教授ハリー・プライスと弟の在中国宣教師フランク・プライス兄弟が中心となり、名誉会長には元国務長官ヘンリー・スティムソン(その後に陸軍長官)、会長には元漢口総領事ロジャー・グリーン、名誉副会長には元全米キリスト教評議会会長ロバート・スピアー博士、顧問にはハーバード大学学長など学界や宗教界、出版界などの大物が多数参加していた。
アメリカ委員会は1939年1月には「略奪者日本の侵略活動への加担を拒否する」との声明を発し、『日本の戦争犯罪に加担するアメリカ』を7万5000部、『戦争犯罪』を2万5000部など、一一種一〇〇万部のブックレットやパンフレットを発行し、上下両院の全議員、全米の大学、新聞社、キリスト教団体、商工会議所、労働組合などに配布していた 。
若杉ニューヨーク総領事の報告によれば、アメリカの反日組織の中でアメリカ共産党と最も密接なのが「中国を支援する委員会」で、委員長のフィリップ・ジェフェは「共産党員ニシテ客年」訪中し、「共産軍本部ヲ訪問」した人物であり、この組織は全米24州109都市に支部がある。
また、「平和と民主主義連合」の幹部の多くが共産党員であるといっても「過言ニ非サル可シ」。
「中国人民の友」の会長マックス・スチュアートは「過激思想」の持ち主で、外交政策協会の調査員、「ロシアの友」の全米委員で、左翼雑誌『Nations』の編纂長兼記者でソ連とも「密接ナル関係」あり。
この他にニューディール左翼が関与する「日本の侵略に反対する日本製品不買委員会」などが、全米労働総同盟(AFL)や産業別組合会議(CIO)に日本品不買決議を採択させ、対日武器輸出禁止の請願を議会に提出するなど、共産党であることを伏せて「各階級ニ接触シ其ノ勢力ヲ糾合シツツアリ」と報告しているが 、この報告が正しかったことは、『アメリカ共産党 とコミンテルン 』や「ベノア文書」などの出版や公開により裏付けられている。
蒋介石はクリスチャンの妻・宋美齢に倣い洗礼を受け、キリスト教団(特にプロテスタン)の影響力を利用し、1933年7月には中国と関係が深い三つの伝導団体が統合され、YMCA世界連盟のJ・R・モット会長主導で「中国を援助する教会委員会」が結成され、全米12万5000のプロテスタン教会所属の3000万人に反日と日本製品不買を訴え、その影響は「侮リ得サルモノ」であると若杉総領事は報告していた 。
また、蒋介石は宗一族から孔祥熙、宋子文などをワシントンに送りロビー活動を強化し、中国軍需物資供給会社にルーズベルトの親族や側近を迎え、親中国派のホーンベック国務省顧問やヒス極東課長などの官僚や財界人、ジャーナリストを連日招き中国への支援と反日世論の強化を画策していた。
このため野村吉三郎大使の日米交渉が外国への伝導組織であるメリノール宣教会長のジェームズ・ドラウト司教や、事務局長のジェームズ・ウォルシュ神父などの私的な交渉から正規の交渉として国務省に移管されると、国務省内のチャイナハンドやピンコが動き、対日強硬派のホーンベックやモーゲンソー財務長官が干渉した。
そして、交渉が大詰めに入った11月25日には、モーゲンソー財務長官から経済力で日本を無力化するモーゲンソー試案がハル国務長官に提出された。
この試案はモルゲンソー財務長官の特別補佐官ホワイトが、NKVDの在米トップのイサク・アフメロフの指示で、ビタリー・パブロフ(NKVD・退役中将)が口頭でホワイトに示唆し、この工作をホワイトにちなんで「雪作戦(スニェーク)」と命名し、「作戦は見事に成功した」と、1996年にモスクワで出版した『スノー作戦』に書いている。
ホワイトが作成した「日本との緊張を除去し、ドイツを確実に敗北させる課題へのアプローチ」の第一部の「暫定案」は、交渉の継続を狙った一時的なものであり、第二部の「基礎案」には原則的な強硬な対日要求が列記されていた。
このホワイト案には「なかにはよい点もあって、われわれの最終草案にとり入れられた 」とハル長官は述べ、ホワイト・モーゲンソー案の約七割が国務省の基礎案に採用されている。
しかし、パブロフから聞き込み調査を行った須藤眞志は、ホワイトがソ連の情報機関から働き掛けを受けたことは否定できない事実であるが、ソ連の工作に強く影響されて「ハルノート」が作成されたとは断言できない。
また、ソ連の工作によって日米戦争が起こされたというソ連謀略説は、パブロフの証言を見る限り、全く当たっていない」と述べている。
ハル長官は11月25日朝のスチムソン陸軍長官とノックス海軍長官との会談で、三ヶ月間の交渉継続の「暫定協定案」を日本側に手渡すと伝え、正午からマーシャル国務長官、スターク作戦部長を加えたホワイトハウスの軍事会議でも「われわれ自身が危険にさらされないで、最初の一弾をうたせるような立場に日本をいかにして誘導すべきか」などを話し合い 、ハルはこの時点では暫定 協定案を手渡すつもりでいた。
それが変わったのがスチムソンに届いた陸軍情報部からの日本の船団が台湾沖を南下中との情報であった。
この情報を受けるとスチムソンは「10隻ないし30隻」との報告を「30隻から50隻」とし、陸軍情報部は「これは先のヴィシー政府との取り決めによるもので、概ね通常の行動」と報告したが、スチムソンはどのように大統領に報告したのであろうか、スチムソン日記には大統領は報告を受けると、「すっかり興奮し、烈火のごとく立腹した。日本は中国からの全面撤退を含む交渉をしていながら、他方ではインドシナに向かって遠征軍を送ろうとしていることは、日本が全然信用できない何よりの証拠で、いまや情勢はすっかり変わってしまった 」と書かれて おり、須藤真志はスチムソンのハルへの電話がハルを基礎的一般協定案(ハルノート)に変えたとしている 。
一方、ハル長官が暫定協定に傾いているとの情報を得ると、ピンコの内務長官イッキーズは「もし日本との交渉が成立したならば、私は協定を攻撃し国務省とその宥和政策を非難する警鐘の声明を発表し、直ちに閣僚を辞任するつもりであった 」
と日記に書いている。
また、ホワイトは暫定協定に傾いていることを知ると、太平洋問題調査会事務局長エドワード・カーターに至急電を打ち、上京し基礎案採用へのロビー活動を行うよう依頼するなどハルノートには深くかかわっていた 。
ホワイトは コミンテルンとの関係がしばしば指摘されたが、戦後も長く中枢に居続け1946年から47年には国際通貨基金(IMF)のアメリカ代表に指名され、理事長にまで栄進した。
しかし、1948年8月16日に下院の非米活動委員会でKGBの在米責任者のボリス・バイコフ大佐の活動が明らかになり喚問されると、三日後に持病の心臓疾患から死亡した。
しかし、その死因には多くの疑念が残されている。
中国本土におけるピンコの暗躍
野村吉三郎大使が必死に中国におけるコミンテルンの危機を説明したが、ルーズベルトは全く聞く耳を持っていなかった 。
それは中 国から送られてくる報告が「中国共産党はほんとうは共産主義者ではなく、むしろ農民民主党(土地解放者)である。国民党政府が共産党を討てば、共産党はソ連に援助を求め、その結果、中国は赤化する(ディビス報告)」、「毛沢東は共産主義国家、社会主義国家をつくろうと考えていないし、国民党政府を転覆させようとも思っていない。また、ソ連やコミンテルンとも関係はない(サービス報告)」などという電報だけがワシントンに送られていたからであった 。
「野村 吉三郎(駐米大使)」アトリーは重慶のジョン・ S・サービス、ジョン・S・ディビスとジョン・C・ビンセントの三人のジョンが、軍民(海軍を除く)のすべての発信電報を掌握しており、もし館員の誰かが「共産軍が攻撃しているのは日本軍でなく国府軍である」と、報告したならばワシントンには届かなかったであろうと書いている 。
これらの報告を送ったリーダー格のサービスは上海事件後の日本軍の漢口攻略作戦時に漢口にいたグループで、この当時は国府軍と共産軍がともに対日戦争を戦っていた時期であり、その知見が国府・共産軍の協力が可能とのトラウマとなったのである。
サービスはスノーやラティモア、宋慶齢(孫文の妻、のちの中華人民共和国副主席)らと親しく、中国共産党の軍事委員会の情報工作責任者の董必武などと頻繁に接触し、1942年には延安を訪問し四ヶ月滞在して毛沢東や周恩来と会談したが、1943年にはスティルウエルの政治顧問となった。
しかし、1945年に連邦調査局(FBI)がニューヨークの太平洋問題調査会を捜査した際、アメリカ政府の機密文書が大量に発見されたため、サービスを含む六人が逮捕されたが、国務省の一部が庇護したため釈放され、サービスの調査を指示した国務省副長官は辞職を余儀なくされた。
しかし、あまりにも嫌疑が重大だったため再審査を受けると国務省を去った 。
ディビスは中国生まれの外交官で 1942年以降、スティルウエルの顧問であったが国民党政府を誹謗し、共産党軍を攻撃するので蒋介石への武器援助をやめ、共産軍を強化すべきであるとの報告を送り続けたが、ケネディ下院議員(のちの大統領)が中国の赤化はアメリカの外交官と大統領の責任であると演説し、1952年の大統領選挙では共和党から民主党が弱腰であったため、中国を喪失したなどの非難の声が高まると南米に逃れた。
また、蒋介石の参謀長で在華米軍司令官のスティルウエルは、中国駐在武官を三回も務めた中国通であったが、漢口時代には『中国は前進する』などの共産党を称賛する著作を書き、朝鮮派遣軍総司令官朱徳の伝記『偉大なる道』を書いたコミンテルンとの関係が深いアグネス・スメドレーや、エバンス・カールソン大尉などと親しかった。
このためスティルウエルは、日記に次のように書くほど共産党に好意を持ち国民党には反感を持っていた 。
国民党と共産党を比較する と、国民党は腐敗、粗忽、混乱した経済、徴税、空言と実体のなさ、買いだめ、闇市、敵との交易。共産党の計画は減税、減租(小作料の引き下げ)、減息(利息の引き下げ)、生産増加、生活水準の向上、政治参加、彼らの行った約束の実現である。一種の理想だが、こうした理想が彼(蒋)を打ち負かした。
彼は共産主義の影響力の拡大に途方に暮れている。
彼は中国の庶民が共産党を歓迎し、人を押し潰すよう重い税金・人を虐待する軍隊、戴笠の特務から完全に解放されることを望み、共産党が中国人民の唯一の明確な希望となっていることに我慢できない。
エヴァンス・カールソン大尉は大使館勤務中に共産党員やピンコの在華アメリカ人と接触していたが、帰国するとルーズベルト大統領の私邸の警備隊長に任命され、ルーズベルトと個人的に深い関係が生まれ、三人のジョングループとは異なるチャンネルでルーズベルトの中国政策に大きな影響を与えた 。
カールソンとルーズベルトとの 関係が深くルーズベルトが如何に信頼していたかは、1942年8月16日にルーズベルトの長男ジェームズ・ルーズベルト少佐が、カールソン中佐の指揮下にマキン環礁にコマンド攻撃を行ったことからも理解できるであろう。
操られたアメリカワシントンにはロークリーン・キューリー極東問題の特別補佐官がいた。
キューリーは中国共産党の地下党員で財政の専門家冀朝鼎と親しかったことから、中国への支援がアメリカにとり経済的に利益があることを具体的に説明することができた。
キューリーは周恩來との会見後、蒋介石に「アメリカは国共紛争が解決されない限り、大量の援助はできない。中米間の経済、財政などの諸問題を進展させるのは不可能であると伝えるなど「ワシントンで最も早く共産党重視の先入観を植え付けた人物」であったと言われている 。
ワシントンの中国政策が共産党支持へと決定的に変わったのは、1944年
6月にルーズベルトがヘンリー・ウォーレンス副大統領を特使として中国に派遣したことがはじまりであったが、ウォーレンスはルーズベルトの大統領選挙に協力し、第一期は農業相、第三期は副大統領に就任するなどルーズベルトとはきわめて近い関係にあった。
ウォーレンスは太平洋問題調査会の理事であり、随行者はラティモアと一九四六年には極東局長に栄進したジョン・C・ビンセントであったことからも、ウォーレンスの中国政策がきわめて親共産党的となったことが理解できるであろう。
1945年にパトリック・J・ハーレー大使が共産党と親密な12名の館員を帰国させた。
しかし、まもなく国務省内の中国ロビーにより大使自身が更迭されてしまった。
後任は中国情勢に詳しいウェディマイヤー在華米軍総司令官兼蒋介石の参謀長が任命されるべきであったが、任命されたのは中国を全く知らないジョン・レイトン・スチュアートが教育界から任命された。
それはマーシャル国務長官が周恩来の反対を受けて取りやめたからであつた 。
赴任国が大使の人事に不同意を表して替えられる例はあるが、政権に反対する勢力の不同意で大使を替えた例は世界史上に類を見ないのではないか。
それほどアメリカの中国政策は中国共産党に支配されていたのであった。
毛沢東は1937年10月には「中・日戦争は、わが中国共産党にとって党勢拡張のための絶好の機会を提供している。
わが党の一貫した政策は、その精力の70パーセントを党勢拡張に、20パーセントを国民党との取り引きに、残る10パーセントを日本軍に対する抵抗にふり向けることである 」との指令を発し、さらに1941年5月には中央南方局の会議で 周恩来から、「精幹(頭脳明瞭で実行力に富む)を隠し、力を蓄え、時期を待つ」が指示されていた 」。
さらに周恩来は「外交工作に関する指示 」を出し、共産党の支配地を 視察するアメリカ人に共産党の活動を「われわれの国際統一戦線の展開と見なし……国際統一戦線の中心的な内容が共同抗日と民主合作であることを明らかに示す必要がある」と、抗日に熱心に取り組む民主的政党であるとの宣伝工作を指示するなど、単純なアメリカ人を優れた外交的手腕により、騙し続けて中華人民共和国を建国したのであった。
蒋介石はルーズベルト、マーシャル、スティルウエルらに、中国共産党とソ連との密接な関係、人民解放軍が政権を奪取するために兵力を温存し、兵力の拡張を図っていると何回となく警告したが効果はなかった。
なぜアメリカがこのように中国政策を間違えたのであろうか。
それは先に説明したとおり中国政策がピンコに牛耳られていたこと、アメリカ、特にルーズベルトが中国や中国共産党を知らなかったことや、ルーズベルトの強い親中感情や反日感情にあったが、アメリカがこれほど共産党に肩入れした裏には、対日戦を中国に戦わせ自らの出血を避けようとした意図もあったことは、ディヴィーズの次の報告から明かであろう。
アメリカ政府は、いま直ちに蒋介石を見捨てるべきではない。
ここ当分は、これにより得るよりも失うほうが多いからである。
しかし、「中国における進歩的軍隊―共産軍―を支持して、最終的には蒋介石を見捨てることについてアメリカは良心の呵責を覚えるべきではない 」
しかし謀略戦では中国の方が上であったことは、1939年に駐米大使になった
胡適の国民党政府への上申書「日本切腹、中国介錯論」を読めば明かであろう。
胡適はわれわれが戦い続ければ、中国沿岸の港湾や揚子江下流の天津、上海などの都市が、河北、山東、チャハル、鞍遠、山西、河南などの諸省が占領され、財政的に崩壊するであろう。
しかし、中国がこの犠牲を省みずに戦い続けるならば、日本は国力を消耗し列国も中国における権益を日本に侵され、居留民を守るために軍隊を派遣し日本と戦うことになり、世界の同情も中国に集まり日本は孤立する。
特に米英両国が香港やフィリピンに切迫した脅威を感じれば、居留民と権益を守ろうと軍艦を派遣せざるを得なくなり、太平洋での海戦が迫ってくる。
このような状況になって、はじめて太平洋での世界戦争の実現を促進できる。
我々は三~四年の間は単独の苦戦を覚悟しなければならない。
しかし、日本は自殺の道を歩んでいる。
日本の武士は切腹を自殺の方法とするが、その実行には介錯人が必要である。中国が介錯しよう 」と
中国の超長期戦略でアメリカにユーラシア大陸の防波堤であった日本を打倒させ、次いで朝鮮戦争、ヴェトナム戦争に引き入れられ、さらに、アジアで覇権を確立しようとしている中国と対峙させられてしまったのである。
模擬東京裁判の開催を自虐史を払拭し子孫に誇りある国を引き次ぐ対策があるであろうか。
それは世界から歴史学者を招聘し、学者による模擬極東国際軍事裁判(東京裁判)シンポジュームを開催し、連合国の戦争犯罪を日本を裁いた極東軍事裁判条例の第五条で次の三つの罪状で討議することである。
①平和に対する罪(侵略戦争を計画し、準備し、開始し、遂行して世界の平和を撹乱した罪
②通例の戦争犯罪(戦争の法規および慣例に違反したという罪)
③人道に対する罪(非戦闘員に対して加えられた大量殺裁、奴隷的虐待、追放その他の非人道的行為)多くの人は連合国の非を責めても今更何になるのか、昔の話ではないか、どうにもならないのではないかとの心境だと思う。
確かに連合国は「正義と人道」のために戦っていると宣伝し、東京裁判やBC級裁判もまさにその名目で行われたが、チェンバレン内閣の官房長官で枢密院顧問となったロード・ハンキー郷は、「もし同盟国アメリカの指導層が敵の手に捕われ、犯戦争犯罪人として審判された場合には、軍事裁判所の条例を起草する人たちは原子爆弾の使用を国際法に対する犯罪として宣言することを任務と心得たに違いない。
もし敵が原子力の問題を解決して、さきに原子爆弾を使ったとすれば、原子爆弾の使用が同盟国アメリカにおける戦争犯罪のリストの中に掲げられ、原子爆弾の使用を決定した人たちや、原子爆弾を用意したり使用した人たちは断罪されて絞首刑に処せられたであろう」と書いており 、学術的に冷静公平に連合国の戦争責任を討議することが必要ではないか。
アメリ カ、特にルーズベルト大統領の最大の罪状は「平和に対する罪」であり、ルーズベルトが日本を挑発して戦争を仕掛けたことについては、イギリスの生産相兼米英生産資源庁長官のオリバー・リトルトンが、戦争中の1944年6月22日にロンドンのサボイ・ホテルで開かれたアメリカ商工会議所での講演で、「日本人が真珠湾でアメリカ人を攻撃せざるを得ない」ほど、アメリカは日本を挑発した。
「アメリカが戦争に巻き込まれたというのは、歴史を戯画化したものである」と『ザ・タイムズ』は報じている。